言葉の夜ノート アラブ音楽
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言葉の夜 - 独奏尺八のための -  竹間ジュン 作曲(1993) 菅原久仁義に献呈

CD 雨月譜 / 菅原久仁義(尺八)のライナーノートより。収録された「言葉の夜」に寄せて書いた文章です。


 尺八は極めて洗練された楽器だが、その可能性には未だ計り知れないものがある。特に五孔尺八の深遠さは、他の何者にも代え難い。アラブ音楽を専門とする私はその尺八の芸術に対して、何か私にしか出来ないことをしたかった。私は尺八古典本曲における、音響と精神性の高密度な合体に、アラブ古典音楽の、微妙な音程に支えられた旋法理論を組み合わせることで、異次元の美を実現できないかと考えた。アラブ古典音楽は様々なマカーム(旋法)によって成り立つマカーム音楽である。この作品はマカーム理論と尺八古典本曲の語法との融合の試みである。

   この曲を組み立てる上で私は、アラブ音楽で最も特徴的とされるマカームの一つ「スィカ・フザム」を主旋法に選んだ。これは中三度(短三度と長三度の中間・微分音)をトニックに持つ。この微妙な中三度の味わいは、アラブ音楽特有のものである。方法論として、おおまかにはマカーム理論に従って転調する形をとったが、一部において厳密さよりも自由な表現を選んだ。楽曲形式としては主題/展開/再現の、わかりやすい三部形式にした。演奏者が古典本曲のイディオムを無意識に行使するように、最初は尺八譜で書いたが、その意図が五線譜上でも伝達可能なことがわかったので、最終的には五線譜を用いて完成した。ただし、音価に関しては、尺八譜で表記できる範囲相当に留めた。

 異なる語法、審美観を持つ体系どうしを結びつける目的は他でもない。ある種の芸術的な価値の獲得に、一個の論理体系からの飛躍が不可欠であることを、我々は経験的に知っているはずだ。静かな対立と不安定な調和の反復から生み出される新しい概念、穏やかな音響的安定の中ににじみ出てくるズレの響き、異なる時間軸が生み出す音楽的空間のねじれ。これらは皆、動いているものとしてしか捉えることの出来ない価値、言い換えれば音楽芸術における美の表出に他ならない。

 この種の芸術の分野においては、言葉 = 論理が、ある飽和点に於いてなしくずし的に崩壊していく様子は、甘く幻惑的な美そのものである。そしてその決定的瞬間はしばしば、我々の観念の世界における、特別に清められた時間に訪れる。それは言葉の夜に。


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