現在に生きるアラブ音楽の伝統 arab-music.com
松田嘉子のエッセー No.11

現在に生きるアラブ音楽の伝統


アラブ音楽

 アラブ音楽の文化圏は、中東を中心として西は北アフリカから、東はカスピ海周辺にまで及ぶ。微分音を含む精緻な旋法(マカーム)や複雑なリズム(イーカー)の体系を持ち、大別すればマグリブ楽派、シリア・エジプト楽派、イラク楽派などに分かれるが、さらには国や地方ごとに細かい特色がある。
 音楽のジャンルとして、古典(芸術)音楽、民謡やダンスなどのフォルクロリックな音楽、宗教や儀礼の音楽、そして現代のポップスなどがあり、楽器や演奏者の教養、演奏の用途や環境などはそれぞれ異なるが、ここでは古典音楽を中心に述べたい。

歴史を振り返って

 先進諸文明の影響を受けながら発達したアラブの音楽文化は、イスラム成立後にウマイヤ朝、アッバース朝という栄光の時代をみた。また後ウマイア朝スペインで培われたアラブ・アンダルシア音楽は、十五世紀以降主として北アフリカの地で継承された。そしてとくに十六世紀以降、アラブの芸術音楽を継承し洗練発展させたのは、アラブ圏に版図を広げたオスマン帝国の宮廷であった。
 十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、オスマン帝国の衰退とともにヨーロッパの支配力が強まり、文化も西洋化する一方で、エジプトを中心にいわゆるナフダ(アラブの文芸復興)の機運も高まる。優れた芸術家たちが続々と登場し、中でも近代歌謡の道を拓いたのはサイード・ダルウィッシュ(1892-1923)であった。そして一九二〇年代頃より数十年間は、新しく登場したメディアである蓄音機やラジオ、映画などを通じて、カイロを中心としたエジプト音楽の黄金時代となる。偉大な女性歌手ウンム・クルスーム(1904頃-1975)の歌声はアラブ諸国中の人々の心を魅了し、死後四半世紀を経た今でも愛され続けている。こうして時代によって変遷しつつも受け継がれているアラブ音楽の、慣習や特質をいくつか取り上げ、現在のあり方を考えてみたいと思う。

楽器

 アラブ古典音楽で用いる代表的な楽器には、弦楽器にウード(リュート)やカーヌーン(チター)、管楽器にナイ(フルート)、打楽器にレク(タンバリン)などがある。ウードはフレットレスの撥弦楽器で、昔から歌手や作曲家にもっとも好まれてきた楽器である。カーヌーンは台形をした弦楽器で膝や卓上に置き、両人差し指につけた爪で弾く。ナイは神秘主義のメヴレヴィ教団では聖なる楽器とされた、葦製の笛である。レクは楽団のリズムをつかさどる重要な打楽器で、十指を使い多彩で複雑なリズムをきざむことができる。  ウードが西洋のリュートの祖先であると言われるように、多くのオリエント起源の楽器が西洋の楽器のルーツとなったことはよく知られている。バイオリンも、アラブの楽器ラバーブやカマンジャから発達したとされるが、十九世紀後半からはそれらに代わってアラブでも盛んに使用されるようになった。ただし調弦や装飾などの奏法は西洋音楽とは異なり、独特の味わいがある。
 イラクでは弦を撥でたたくサントゥールが使用されるなど、国や地方によって、楽器の種類や名称、調弦、奏法、音の好みなどが少しずつ違うが、おおむねこうした楽器をソロまたは少人数の室内楽的なアンサンブルで、歌の伴奏や器楽演奏に用いるのが伝統的なスタイルである。
 一般にこうした楽器は、西洋楽器に比べて音量こそ出ないものの、全音階や半音階の枠組みを越えた微分音を出すのに適し、また人の声のように線的な性質を持つ旋法音楽の演奏に向いている。
 二十世紀半ばから、アラブ音楽においても大編成のオーケストラを使用することが多くなり、伝統楽器に加えて、ギター、アコーディオン、オルガンなど、西洋の楽器や電子楽器が頻繁に用いられるようになった。これは映画音楽やポップスの普及とも関係が深い。エジプトの歌手・作曲家ムハンマド・アブデルワハーブ(1907頃-1991)がオーケストラにエレキギターを加えた時にはとても斬新だったものだが、もはやアラブの聴衆に西洋楽器に対する違和感はない。中には微分音が出せるように調整した楽器もあるとは言え、やはり限界はあるので、西洋楽器の導入によって一種の微分音の単純化が促されたことは否めない。
 昨今ではアラブ人の中にも西洋音楽の教養を持つ人が増えた。演奏家も、おおむね西洋音楽と伝統音楽両方を学ぶ。しかしそんな彼らにたずねてみると、「心を打つのはやはりアラブ音楽」という人が多い。また欧米や日本で子供にピアノを習わせるように、上流家庭では昔から子弟にウードを習わせる習慣があり、伝統楽器に対する愛着と誇りには今も根強いものがある。
 そして音楽は最高の娯楽でもある。イスラム暦においては年に一度ラマダンと呼ばれる断食の月がある。断食自体は辛いことに違いないが、実際は夜のうちにたらふくご馳走を食べるなど、ラマダンには一種楽しい雰囲気もあり、他の時節と比べてもとくにラマダン中はコンサートが頻繁に開かれる。夕餉の後、一日中空腹と渇きに耐えた心身を癒すかのように、人々はじっと音楽に聴き入り、歌に酔うのである。

歌と器楽

 アラブ人は、何をさておいても歌が好きである。歌のない音楽は「ムシカ・サムタ(サイレント・ミュージック)」と呼んで、音楽と区別していたという話もある。コンサートのプログラムも、歌と器楽をほどよく交替させながら組むのが好まれる。
 アラブ音楽では、音楽によって惹き起こされる魂の恍惚をタラブと言い、素晴らしい歌手はムトラブ(タラブへと導く者)と呼ばれる。アラビア語の歌詞が明確に聴衆に伝わり、音と意味とが芸術的に結びついてタラブの状態が生まれる。
 器楽の理想もまたタラブである。したがって、器楽はあたかも人のことばを模倣するかのように、歌うように、演奏してきたのが伝統的なスタイルであった。歌による即興ラヤーリーでは、歌手が歌ったメロディをカーヌーンなどの伴奏者が繰り返し、それが正確に再現できるほど優れた楽器奏者とみなされる。また器楽による即興タクスィームも、優れたものは明確な韻律や分節を感じさせるものである。
 このようにアラブ音楽では伝統的に、歌と器楽は密接な関係にあった。しかし近年では西洋音楽の影響も受けて、しだいに器楽の独立性が高まってきたのは新しい一面である。  とりわけイラク楽派を中心に、ウードのソロが普及している。ウードのパガニーニと呼ばれたシェリフ・ムヒエッディン・タルガン(1892頃-1967)は、1934年バグダッドに音楽院を設立した。その影響下でバグダッドではウード独奏のみでリサイタルを行うスタイルが確立し、ムニール・バシール(1930-1997)を筆頭に多数の名手を輩出した。彼らの演奏はより技巧的でスピーディなものを目指し、調弦は高くなり、タクスィームを延々と繰り広げる傾向がある。歴史的には歌の前の試し弾きから発達したタクスィームは、従来はあまり長く奏でるものではなかったのである。
 こうしたイラキ・スタイルは比較的欧米の聴衆に受けがよく、何人かの演奏家の名前がよく知られるところとなった。しかし一部には器楽的な技巧重視のあまり、アラブ音楽が本来持っていた音楽性やウードらしいオリジナリティの薄くなった演奏家たちもいる。

即興性

 アラブ音楽は、すぐれてインタラクティブな芸術である。タクスィームは、音楽家が伝統的な型をふまえた上で自分のマカームの知識や技術、感性を駆使して行う即興演奏で、今日の器楽芸術音楽における代表的なスタイルの一つである。演奏家とよくわかった聴衆の間には一定の了解が成立しており、美しいフレーズや巧みな転調、粋な終止があるごとに、聴衆は感動を身体やことばで表して反応する。一見孤独で内省的な行為に見えても、演奏家はそうした聴衆の雰囲気を感じ取り、対話的に演奏しているのである。
 決まった楽曲を弾く際も、よい音楽家に必要なものは状況にあわせた演奏のできるフレキシビリティである。楽譜に書いてあるようにしか演奏できない人は、アラブ音楽家とはいえない。
 もともとアラブ音楽は、楽曲、演奏法や技術はすべて口伝で師から弟子へと伝達され、記譜されることは稀であった。音楽はその場その場で生み出されるもので、同じ曲でも演奏家によって表現が違うことは当然であり、同じ演奏家でもいつも決まったように演奏するわけではない。
 楽譜は記憶の補助的手段としての役割は大きいが、記譜することはどうしても演奏の固定化につながる。また微分音の音程やアラブ音楽の表現に欠かせない装飾にしても、楽譜に細かい表記をしたところで煩雑なだけである。本来演奏家自身が分かっていなければならないのだ。口伝の伝統の中で、弟子は師と長い時間を共有しながら、そういった芸術観全体を知らず知らずのうちに身につけていく。
 ちなみに、西洋音楽的な手法も取り入れるモダンな作曲家であったムハンマド・アブデルワハーブは、アラブ音楽に西洋音楽のような教育メソッドや教則本がないことを嘆いたと言う。時代が変わって、今ではウード、ナイ、カーヌーンなどの教則本もいろいろと出版されるようになって来ている。教育の場で楽譜が使用されることも多くなった。
 しかし楽譜を併用したとしても、師の実際の演奏を何度も繰り返して聴き、細かい表現や音程の一つ一つまで心と耳で覚えるという口伝の基本は、今でも生きている。タクスィームはもちろん記譜しない。そして相変わらず、楽譜を使用せずに習う人たちもいる。それはけして効率的ではないが、時間をかけて身体で覚えたものは貴重な財産となる。いずれにしても音楽は生きたもので、楽譜でなく演奏家の内側から生まれるものであるという考え方は、アラブ音楽のあり方を根底から支えるものである。
學鐙表紙
2000年10月・丸善発行《學鐙》第97巻第10号に掲載したものを転載しました。


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