ウードと私 arab-music.com
松田嘉子のエッセー No.9

ウードと私

 ウードはアラブの代表的な弦楽器。現在私は演奏用に二台のウードを持っている。一つは古いトルコ型で、もう一つはエジプト型。どちらもチュニジアの私の師匠、アリ・スリティに作ってもらったものだ。
 最初に作った古いトルコ型のは、ボディがややコンパクトな涙形で、音量はさほど出ないが、品格のある音がする。何年か経って、スペアにもう一台作ってもらうことになったので、今度はエジプト型のものを注文した。もう少し、音量の出るものが欲しいと思ったのだ。こちらは背面部が黄金虫のように盛り上がり、やや大きいので、音にボリュームがある。

 アリ・スリティはチュニジアを代表するウード奏者だが、同時に一流の楽器職人という側面を持つ。とくに古いトルコ型の楽器制作にかけては、独壇場と言ってよい。これは彼自身が若い頃の修業時代、1930年代のイスタンブールで演奏活動を通じて覚えた音であり、今となっては貴重な歴史の記録でもある。
 自宅離れにあるレッスン室は、地下が工房になっており、作業台の周りには、工作機械、木材、無数の工具や塗料などが所狭しと置かれていて、いつまで見ていても見飽きない。何年も製作中で壁にかけられたままのウードもある。木材がよく乾燥するように、小型の電気ストーブを一年中つけっ放しにしてある。私はそこで、自分のウードが少しずつ完成に近づいていくのを、毎日期待をこめて見守った。
 私は注文の際に、楽器のサイズや形状、指板、弦高など使い勝手に関わることはあれこれ言ったが、デザインや細部の装飾に関しては、作り手のイマジネーションに任せることにした。また彼も、それを強く望んでいた。

 ウードの表面板の響孔は大小三つあり、透かし彫りを施すのが常である。これは美術工芸という視点からいえば、もっとも華やかな部分。しかし、じつはウードの音色を彩る重要なパーツでもある。アクシデントなどで透かし彫りが外れてしまったウードの音は、明るく抜けが良い反面、この楽器の持つ独特の、少しこもったような響きが失われている。一方、ソロ演奏のジャンルが独自に発達したイラク楽派の楽器には、透かし彫りのないものも多い。これはまた一種別の趣がある。
 透かし彫りは、繊細で複雑なデザインを何種類も、まずトレース紙に描く。模様をデザインするのは、ウードのタクスィーム(即興演奏)を演奏するのに似ている、とアリ・スリティは言う。どちらもある程度伝統的な型があるが、それに個性を付け加え、自由に創作してよいということか。極細の糸鋸で削る作業は、模様を破壊しないように細心の注意が必要であり、とても骨の折れる仕事である。

 ウードの装飾は透かし彫りだけではない。ピックガード、緒留め、棹の付け根、ボディの背面など、象牙や光沢のある貝などを用いて象眼を施すところがある。またアラビア文字は唐草模様などの装飾にうまく紛れ込むので、楽器の使用者や制作者の名前を、一見模様にしか見えないように刻み込む、といった粋なこともできる。しかし、たまには装飾過多で、醜いウードもある。背面をびっしりと貝殻細工で埋め尽くしたようなものは、単に悪趣味と言うだけにとどまらず、概して音も悪いものだ。

 私が一箇所だけ、絶対に装飾しないように頼んだところがある。それは指板だ。ここも、伝統的には装飾することがあり、とても美しい。しかし、運指の邪魔になるのは確かで、しかも経年変化で音程が悪くなったりすることを知っているので、ここは黒檀の一枚板にしてもらった。

 思えばトルコ型の方の音量に不満を感じて、エジプト型を作ってもらったのだが、今となってみると、トルコ型の憂いのある音質は、捨てがたい魅力に溢れている。
 うまく作られた楽器は、年月を経て、弾き込むにつれて音質が変化していく。また、弾く人の音になっていく。これは、弦楽器全般の特徴だろう。初めは楽器の表面に音が張り付いたような感じだが、次第に、ボディの中での鳴りがよくなり、いわゆる音離れの良い感じに変わっていくのだ。もうどちらも、やや味のある音になって来つつある。この二つの楽器を手に出来た私はとても幸運だと思う。今は演奏プログラムやその際の楽器編成など、状況によって使い分けるようにしている。

季刊アラブ表紙 1998年12月・日本アラブ協会発行《季刊 アラブ》第87号に掲載したものを転載しました。


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