チュニスの言語習慣 arab-music.com
松田嘉子のエッセー No.2
マシュムーム挿絵

チュニスの言語習慣

アラブ音楽を勉強しながらチュニスで生活するうちに、チュニジア人のことばについて気がついたこと、感じたことが少なからずあった。

 一言で言えば、チュニジア人たちは言語的に二重生活を送っている。彼らはよく自分たちの「第二言語」はフランス語だという言い方をする。「第一言語」はもちろんチュニジア語、すなわちアラビア語のチュニジア方言である。

 中近東を中心として広大な地域に広がるアラブ世界は、風俗・習慣の上でも国ごとにさまざまな違いがあり、当然言語も少しずつ異なっている。しかし、イスラム教のクルアーンのことばであるいわゆる正統アラビア語が、標準語として厳然と存在する。これはフスハと呼ばれ、格調高い文学的なことばとみなされている。ラジオ・テレビのアナウンサーの話すことばや、新聞や本の書き文章はフスハである。それに対して各国における日常の話しことばは、「エジプト方言」とか「モロッコ方言」などと呼ばれている。


フスハとチュニジア方言

 ではフスハとチュニジア方言にどのような違いがあるのか、少しだけ例を挙げてみよう。

 たとえば、「お元気ですか」の一番チュニジアらしい言い方は、「シュノワ・ホワレク」である。アラビア語では、相手が男性とすると「カイファ・ハールカ」というのが標準語である。

 「シュノワ」は「何」にあたる語で、「シュノワ・ホワレク」の意味は「あなたの気分はどうですか」ということだ。そしてとくにその「シュ」という音が、疑問を作り出す部分として機能するのか、他の疑問詞にも多く含まれているのがわかる。「カイファ(どんなふうに)」は「キフェーシュ」、「マター(何時)」は「ワクテーシュ」と言うが、これらはたぶん「カイファ」や「ワクトゥ(時間)」の後ろに「シュ」が付いたものだろう。ものの値段を問うときは、「カデーシュ(これ、いくら)」と言う。同様に、フスハの「マン(誰)」にあたるのは「シュクーン」で、「リマーダー(なぜ)」は「アレーシュ」である。ちなみに「どこ」だけは、フスハの「アイナ」と比べてちょっとした発音の違いでしかなく、「ウイナ」と言う。

 疑問詞だけでもこれだけ違うのだから、他の日常的な語彙にもかなり隔たりのあることが、容易に想像できるかと思う。私も長い間、チュニジア人どうしの会話になると、そばで聞いていてもまったく理解できなかった。

 1991年春、チュニス国立高等音楽院に講師として招聘された、パレスチナ人の若いウード奏者アデル・サラミーと友達になった。彼は当時イタリアに住んでいて(今はイギリスにいる)、チュニジア訪問は初めてだった。アデルはフランス語を話さないし、チュニジア人のアラビア語があまりに自分の知っていることばと違っているので、全然分からないと嘆いていた。アラブ人でもたいへんなのだ。ある日レストランでボーイたちがフォークのことを「ファルギッタ」と言うのを聞いて、アデルは「なんだ、イタリア語じゃないか!!」(イタリア語ではフォルケッタ)とあきれて見せた。たしかに、チュニジア語の中には、フランス語やイタリア語が少し変化したような語彙がたくさん入っている。ちなみにフスハでフォークは「シャウカトゥン」である。

 フスハはきちんと学校で勉強する。日本人が「国語」を学校で習うように、読み書きしたり、文法を学んだりするわけである。だから、学校で教育を受けなかったような人たちの中には、フスハを話せなかったり理解しない人も多い。


「第二言語」はフランス語

 フランス語はごく普通に使われている。とくに空港、銀行、郵便局、ホテルなど、外国人に関係の深い場所では必ずフランス語が通用する。タクシーや電車などの交通機関も同様である。街で買える新聞は、アラビア語紙かフランス語紙。一般の人々の会話にも、多かれ少なかれフランス語が混じっている。

 逆にチュニジア人にしてみれば、少なくとも良い仕事に就くためには、フランス語を話すことが不可欠ということになる。したがって、五歳で小学校に入学してから二、三年も経つうちには、アラビア語に加えてフランス語を習い始めるのが普通のようだ。また学校だけでなく家庭でも、早くから子どもにフランス語を教えようとする親が多い。そして上流になるほどその傾向は強く、家庭内で家族どうしがフランス語で会話することも珍しくない。

 一般に英語を話す人は少ない。公文書類、駅や道路に見られる表示、店の名などもアラビア語とフランス語の二つでしか書かれていないので、英語しかわからずに入国した人は結構苦労することになる。しかし、ヨーロッパの事情と同様、アメリカ文化の影響で近年若い人たちを中心に、少しずつ英語が浸透しつつある。学校で習う外国語はまずフランス語だが、その次にだいたい英語を学ぶ。またお金持ちのご婦人方の中にも、趣味で、あるいはご主人のビジネスの補助にと、英語を習い始める人が増えている。


多言語状態が当たり前

 「アラビア語は難しいか?」とチュニジア人によく聞かれる。「子音の種類が多くて、発音の区別や聞き取りが難しいね」などと答えると、「日本語とどっちが難しいか?」と聞いてくる。「そりぁ、私たち日本人にとって日本語は難しくないけど、あなたたちチュニジア人にとっては、難しいと思うよ。」

 「アラビア語は世界一難しい言語」などという言い方もあるように、絶対的に難しい言語があるのだと思いこんでいる人も少なくない。

 また彼らはよく、「アラビア語では、同じことを言うのに必ず三つの言い方がある」と、誇らしげに言うことがある。たとえば、「家」を表すことばとして、「マンズィル」、「ダール」、「バイトゥ」がある、という具合に。たしかに同義語は多いようだし、またチュニジアでは「バイトゥ」を寝室などの「部屋」の意味に使うなど、標準語と方言の使い分けもある。さらに言えば、それらのアラビア語に加えて「メゾン」というフランス語の単語も、ごく当たり前のように使うのだから、彼らは常にある種の多言語状態を自然に受け入れていると言えるのかもしれない。

 レストランのボーイ、ムニールが、テーブルの上のいちじくを指さして言う。「カルムース、フスハではティーン、そしてフランス語ではフィグ。」彼らは、幼い頃からいくつもの呼び名をいっぺんに憶えることで、言語の恣意性を直観的に知り、自由に、軽やかに、つぎつぎと新しいことばを操っていくのだろうか。

 もちろん、そうした活発な言語習得は、彼らにとってのことばが、いわば生活必需品であるからこそできることなのだ。けっして、使いもしないのに憶えているわけではない。ほとんどの人が、自分の職業や生活のレベルに応じて、大事なコミュニケーションの道具としていくつもの言語を所有しているわけである。

 そもそもチュニジアという国自体、地中海沿岸にあり、太古の昔から多くの民族が興亡を繰り返し、異種文化が混じりあってきたところである。トルコ系も多い。「純粋なチュニジア人だ」と言う人も、よく聞いてみるとひいおばあさんはイタリア人だったりする。髪の色、目の色、顔だちも十人十色。多様な人種、多様な言語の存在を、肌で知っているという状況がある。

 また現在のチュニジアは観光立国であるから、春や夏の観光シーズンには、ヨーロッパからの観光客や大学生の集団が、海岸の景勝地を中心にどっと訪れる。仕事上必要になれば、ドイツ語でもスペイン語でも、話すようになるのである。
 最近ではチュニジアを訪れる日本人観光客も少しずつ増え始めたので、チュニスの目抜通りに日本人相手の観光オフィスも登場した。「電話もすべて日本語でどうぞ」と、日本語のできるスタッフをそろえた、やる気満々のオフィスである。オーナーは長年日本で勉強し、日本的経営学を身につけて帰国したM氏。

 テレビ、ラジオなどのメディアの影響も大きい。中流以上の家庭はどこも屋上に直径2、3メートルもあるパラボラアンテナを立て、西ヨーロッパはもちろん、東ヨーロッパ、中近東と、50チャンネル以上の放送を受信している。そのおかげで、家庭にいながら、外国語をマスターすることも可能になった。エジプトの歌や映画、テレビドラマなどは娯楽の中心だから、チュニジア人なら誰でもエジプト方言の特徴をよく知っている。トルコ放送の音楽番組を欠かさず見ていて、トルコ語の単語を解するようになった人もいる。

 もちろん、生活の中で身につけるだけではなく、外国語を専門的に学べる学校がチュニスにはある。世界のあらゆることばを習うことができる、とチュニジア人が誇る、国立チュニス大学付属の機関、ブルギバスクールである。私が友達になったチュニジア人のうちの何人かは、ブルギバスクールで日本語を勉強する気になっている。また、ブルギバスクールでアラビア語を勉強している日本人もいる。


日本人の「第二言語」は何?

 二つの言語を持っていることについて、チュニジア人自身はどう感じているのだろうか。音楽を学んでいる友人の女性は言う。「二つの言語を持っているっていうことは、幸せだと思う。両方の言語の感情や文化が理解できるし、それだけ豊かだわ。」実際に、多くの人は、いくつかのことばを持つ利点を上手に活用しているし、外国へ仕事や旅行に出ることにも積極的だ。

 しかし、こんなエピソードもある。ある日タクシーの運転手が私に聞いた。「日本人の第二言語は何か。」「第二言語?そんなものはない。日本人のことばは日本語。もちろん、学校で長い間英語を勉強するけれど、普段しゃべるのは日本語だけよ。」「そうか。日本語だけですむのか。それはいい。・・・僕たちはフランス語をしゃべる。残念ながらね。」彼は「残念ながら」ということばを、何度も繰り返した。

 自分たちの言語があるのに、否応なしに第二の言語を押しつけられているいう現実。独立後四十年近く経った今でも、チュニジアとフランスは、経済的にも文化的にも旧植民地対宗主国という関係をひきずっている。一般の人が買える車は皆フランス車、というように。

 彼らがふだんあまり表には出さない複雑な感情を、ちらとかいま見たような瞬間だった。


いつの日かチュニジア語で

 音楽の講義を受けたり、現地の音楽家を録音する仕事の時など、会話はすべてフランス語だ。細かい話をするためには、私のアラビア語の語彙はまだ少なすぎる。

 しかし、毎日の挨拶とか、簡単なきまり文句なら、チュニジアのことばをだいぶ憶えた。

 タクシーに乗る。「ボンジュール。ロテル・マジェスティーク、スィル・ヴ・プレ(こんにちは。ホテル・マジェスティーク、お願いします)。」と言っても、もちろんOK。ごくノーマルだ。ところがこれを、「アッサラーム。ノズル・マジェスティーク、アイシャク。」と言えれば、もう完璧。これはチュニジア人の言い方だから。ぜったいに、料金をごまかされたりはしない。

 店で買い物をして、出際に「バラカッラーフィク」と言うと、店員の顔がパッと輝く。フランス語のメルスィでも、フスハのシュクランでもべつにかまわないのだけれど、チュニジアでは、お礼のことばには圧倒的にバラカッラーフィクかアイシャクを使うのだ。そのつぎに「スバラヒール(フスハのタスバフルハイル、おやすみなさい)」と言い交わして、笑顔の別れになること請け合いだ。

 自分たちのことばを話そうとする人に、親しみがわくのは当然のこと。互いの距離がぐっと縮まる。

 いつの日か、チュニジア語で自由に会話できたらすばらしい。それは、アラブ音楽の真髄を表現できるようになるのと、どちらが早いだろうか。音楽もことばも、ああ自由自在になれたら・・・。私の夢である。(嘉・イラストも)


1995年9月・黒の会発行《黒の会通信》第16号に掲載したものに加筆訂正しました。


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